どっちの味方?見方?

最近、「男女共同参画」というキーワードを追っている。


仕事でちょくちょくでくわすのもあるんだけど、
いろいろ話しを聞いたりしているのだが、どーもぴんとこない。
「自分は男だからだろうか?」って悩んだりもしている。


そんな時、ある女性から新聞記事の切抜きを「読んで」って渡された。
下はその一部。

「女はこうあるべき」というジェンダーや、セクシュアリティとか性幻想がつくってきた世の中の決まりごとは、人の意識が変わっても、あたかも「正義」であるかのように我が物顔で存在する。


 セクシュアリティは「だれかを好き」とかそれだけじゃなくて、日常の場にも存在する。性による「男・女」の二項対立が「強者・弱者」とか「支配者・被支配者」、はたまた「優・劣」と置き換えられ、慣習や制度をつくりあげている。それがあたかも当然という顔をして。


 * * *


 金武町杣山訴訟第二回口頭弁論の日。米軍用地に接収された共有地・杣山は正会員を男性、子孫にのみ限る部落民会が管理するという。もちろん軍用地料も。それが「伝統」なんだそうだ。でもこれは金武区のみに限った話ではなく基地のある県内の部落ではどこでも見聞きする話だ。それらは「世帯主は男性である」という前提に立ち、「子孫=男性」という記号で成り立っている。女は男を産むためだけなのだ。


 今回のこの訴訟でも「伝統」をこよなく「愛し」、立ち上がった女性たちをまゆをひそめて見つめ、「ムル ワーバグトゥシーヤー」となじって、それこそ誤りであるかのごとく発言をする人たちがいる。基地ある島ゆえに、ウチナーンチュ同士が「女・男」の記号で争わざるを得ない。

これこれ


どーも、世間でいう「ジェンダー」や先の「男女共同参画」について語る人々のムードっていっつもこれなんですね!
なんか、小学校の時の男子と女子の口ケンカみたい、、、


「男子たるもの女子にはやさしくあるべし」ってな事は、24年間生きてきてよく耳にしてきた。けど、どーもちがうらしい。日本人はまだまだなのらしい。ウチナーのおじ様達はもっとちがうらしい。


男・女関係なく、土地を愛して伝統を守ろうと協力する事、より豊かに生きようとする事に「いじわる」する輩がどーもいるらしい。
最近、そーいう事がすこしずつすこしずつわかってきた。


 * * * * *


今日、「男・女」って視点ではないが、今度の新潟の地震でブログっている田口ランディさんの記事に、関連しているような部分を見つけた。以下抜粋。

  • 田口ランディブログ:アメーバ的日常 2004年10月26日 意味ではなく、趣味のこと より

手助けを必要としている人たちは弱者であり貧者であるという、妙な先入観が、ある世代の人たちには残っているように感じることがある。弱くて貧しい人たちに手を差しのべるのがボランティアだと勘違いしている。


ちょっと、ニュアンスは違うが「ある世代の人たちは先入観で決めつける」って部分で同じだと思う。


でも、自分という我を捨てないと、相手のためにならない。相手の立場に立つということの最も恐ろしい部分は、自分のためを考えないということであり、これはとても難しい。私は我が強いので、相手の立場に立とうとしつつ、つい自分にとっての都合も合わせて考えて行動してしまい、いつも恥ずかしい思いをしている。この難しさは腹の底から痛感している。効率主義から脱けられない。効率を考えることも私の都合である。

どぅーん!!
勉強になります。


そう。自分は最近「私は○○だと思う」って「我」でいろんな事を考えていた。
だから、いろんなことがぐじゅぐじゅしてきて、ちょっとスパイラルっていた。
男女共同参画」も「教育」も「NPO」も「福祉」も「環境」もほかにもいーっぱいあるかもしれないけど、共通しているのは「我」を捨てることのようだと思う。


それらのジャンルで「有識者」として活動していらっしゃる方々はたくさんいる。
いろんな名のある人を見たり会ったりしてきたが、どーも「我」をちょっと出すぎてしまう人が多かった。ということにふと気づいた。


最近、いろんなところで「我」を意識してしまう。
「この人は本意でいってるのだろうか?」
「この人は淋しくてそんなこといってるんだろうか?」
別に人の心を読みたいわけじゃないが、どーもそのあたりが気になる。
ほとんどのひとがその「我」によってフェードアウトしていく気がしてならない。
もっとうまく「我」と付き合わないといけないような気がする。自分も含めて。


自分の存在を確かめるってのは、人間の生きる欲求のひとつだろう。
その「我」をコントロールするということって、ある意味「生死」をコントロールしていることに繋がるのではないだろうか。ましてや「我」を捨てるという事は、「死」を意味している事だとも思える。


「我」を捨てて行動する時、人や金がついてくる、、、、かも
(最近のどっかで気になっていること。)